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2009年5月

2009年5月31日 (日)

歌の歌詞

藤澤ノリマサの曲について、書いてきていますが、歌詞についてはほとんど何も書いていません。なぜかと言うと、僕は歌を聞いているとき、歌詞をほとんど聞いていないから
f^_^;

以前、テレビで誰か(誰だったか忘れてしまいましたが)のファンにインタビューしている場面があって、その人の何がいいかと聞かれると、みんな「歌詞がいい」って答えていたんですよね。それを見ていて、「なんだ、音楽は聞いていないのか」と、ひねくれものの僕は思ってしまったんです。

まあ、音楽の良さを言葉で語るのは難しいし、僕だって藤沢ノリマサの音楽について語るふりをして、実はそれぞれの曲で使われているクラシック音楽の解説をしているだけ
だったりしますが…

そのころ流行っていた曲の歌詞って、僕にはとても説明的で、歌詞としての美しさがないと感じていたから、そういう歌詞がいいっていうなら、歌にしなくたっていいじゃんと思ってしまったんです。

僕にとって、歌詞だって音楽の一部ですよ。でも、僕にとっての歌詞は、第一に音、そのまま音楽の一部になっている「言葉の音」なので、歌を聞いているときは言葉の意味は感じていないんです。聞いているときだけじゃなくて、歌っているときも。歌っている時なんて、意味を意識するとかえって邪魔になっちゃう。

それが「なんとかだから、なんとかでしょ」「だって、なんとかなんだから」みたいな説明的な言葉が耳に入ってふとそれを意識しちゃうと、音楽が聞こえなくなっちゃうんですよね。

歌詞で好きなのは、桑田圭祐かな。言葉を感覚的にぽんぽん繰り出してくるのが気持ち良くて、歌詞だけ見ると、「おー、これをこういうふうに言うかあ」って監視したりする…ものすごい言語感覚をしていると思います。

藤沢ノリマサの曲の歌詞は、結構練ってあるものがありますよね。

「幻影」で言うと、最初に舞台設定があって、背景が語られて、心情を歌いあげていく、その全体が「幻影」になっている、っていう構造じゃありませんか?これが音楽の展開にも合っていて、それを彼の特徴である「発声」でさらに色づけする…

詩としての芸術性云々は僕にはわかりませんが、うまく構成されていると思います。

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2009年5月30日 (土)

藤澤ノリマサ:幻影

この曲の原曲は、スメタナの連作交響詩「我が祖国」の中の「ヴルタヴァ」と書かれていますが、日本では「モルダウ」と言った方が通りが良いですよね。ヴルタヴァというのはチェコを流れる川の名前で、ドイツ名がモルダウ。

チェコ名とドイツ名という関係を知るまでは、"Vltava"と書いてチェコ語では「モルダウ」と読むんだと思い込んでいて、「チェコ語のスペルって、どういう規則になっているんだろう?」なんて思っていましたが…

原曲のヴルタヴァは、小さな源流から始まって大きな川となり、エルベ川と合流するまでの情景を描いているということなのですが、藤澤ノリマサの「幻影」の始まりの、ピアノによるモチーフは、原曲でフルートが演奏する、最初の源流を表すモチーフを思わせます。

原曲はこの源流のモチーフが繰り返されるうちに楽器が増えていき、日本では「モルダウ」として有名なメロディーが始まるのですが、「幻影」ではこのメロディーをまるごとオリジナルな歌詞をつけて歌っています。

これまで取り上げた曲とは違って、クラシックの部分は抑え気味の声で静かに歌っています。自分自身に語りかけるように歌う藤澤ノリマサも、いいですね。

これに続くオリジナルのメロディーは、急き込むような音形を重ねて男の気持ちを表現し、藤澤ノリマサの歌い方がそれをより強めています。

この曲ではクラシックとオリジナルという形で発声を変えるのではなく、それぞれのクライマックスで声の厚みを増すようにして、曲全体をドラマチックに仕上げています。

その効果をより一層高めているのが、珍しく人が叩いているドラムと、ちょっと目立ちにくいのですが、ギター。

このアルバム、全体に打ち込み臭さは感じないのですが、この「幻影」を聞いてしまうと、やっぱり人が演奏する音楽っていいなあと思ってしまいますね。

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2009年5月29日 (金)

誰も使わない改札機

今朝、電車を降りて改札を出ようとしたとき、誰も使おうとしない改札機があった。

僕の前を歩いていた人は定期入れを出したてセンサーにタッチしようと構えたのに、目の前の改札機を避けて隣の改札機に行ってしまった。

改札機の先を見ると、券の出口のところに切符が見える。料金不足で強引に通っていた人がいたのだろう、時々みかける光景だ。

そんなときはセンサー部分のライトが赤くなっていて、使えなくなっているものだが、今朝のその改札機のセンサーのライトは青。使えそうなのだが、みんなトラブルを嫌って他の改札機に行っているのだろう。

どんなトラブルが起きる?

センサーのライトが青である以上、パスモをかざせばセンサーは正常に反応してゲートは開くだろう。磁気式の定期券や乗車券ではないのだから、切符が残っているルートは使わない。出口に残った切符が障害になるような動作ロジックは、あるだろうか。

考えられるのは、切符の出口に何らかのセンサーがあって、たまたま残った切符がそのセンサーを外れているケース。何かの拍子に切符がセンサーにかかれば、何らかのトラブルが起きるかもしれない。

でも、入口のセンサーのライトが青になっているということは、その切符が通ったときの動作はもう完了している。そのあともう一回動作すれば、出口に切符があるのは特別な状況ではない。

すでにその切符の情報は動作ロジックには関わらなくなっているはずなので、入口のセンサーさえ正しく反応すれば、トラブルが起きる可能性は極めて低い。

そして、ライトが青である以上、センサーが正常に動作する可能性は極めて高い。

そう考えた僕は、自分の推論が正しいことを確認するために、その切符の残っている改札機を通った。

無事に通れた。

僕の勝ちだ。

それがどうしったって?別に…ただ、僕はこういう人間だということ、それだけ。

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2009年5月28日 (木)

栗本薫逝く

栗本薫が亡くなった。

もっとも僕が読んでいたのは、本格時代の伊集院大介シリーズ、ぼくら三部作、比較的新しいところでは六道ヶ辻…彼女が最後まで書き続けたグイン・サーガは、一冊も読んでいない。

だからファンを名乗るつもりはないけど、どうも僕は、現代、近代の日本の中に作り出された、栗本ワールドが好きだったようで、完全に架空の世界の中での栗本ワールドには興味がわかなかったように思う。

現代日本の中に生み出された栗本ワールドは、僕には現実世界との間に隙間が見える。でも、栗本薫は、その隙間に気づきながら「これでいいの!」と言い切っているように感じられて、そこに不思議な快感を感じていたのだと思う。

そう言えば、オーソ・ブッコという料理を始めて知った、「グルメを料理する十の方法」は、いわばネロ・ウルフの女性版だが、「いいの!あなたが勝手に誰かに似ていると感じても、この世界は私のオリジナルなの!」と栗本薫は言っていたように思う。そして、少なくとも僕に「そうだね」と言わせてしまうだけの力を彼女は持っていた。

伊集院大介は、天下一大五郎のような悩みは抱かずに向こうの世界に行ってしまったし…いや、抱いたから行ってしまったのかな?違うよね。

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藤澤ノリマサ:その日まで

「その日まで」で使われているのは、威風堂々という、すごいタイトルの曲です。

この威風堂々はイギリスの作曲家、エルガーの書いた行進曲ですが、行進曲と言っても、演奏会用行進曲で、この曲に合わせて歩こうとすると、結構大変です。

威風堂々は、未完の第6番を含めて全部で6曲ありますが、日本でただ「威風堂々」と言ったらこの第一番、というより、この旋律(どの旋律?)のことでしょう。

本家イギリスでは、後に歌詞をつけてエドワード7世の戴冠式の音楽が作られたことから、この旋律はその歌詞に因んで「希望と栄光の国」と呼ばれているのだそうです。

でも、日本では威風堂々。えらけいこ原作のアニメ、「あたしンち」のエンディングでこのメロディーが流れたときはぶっとびましたが、「威風堂々」とクレジットされていましたよね(そう、この旋律、「その日まで」でいうと、まずはイントロの旋律です)。

この旋律は、原曲の中間部で、初め静かに出てきます。いったんこの旋律で盛り上げて、前の部分に戻り、もう一度この旋律が出たときには、鈴は鳴るはオルガンは鳴るはで盛大に盛り上がります。

思わず一緒に声をあげたくなるのですが、そういう人のためには、先に書いたように、ちゃんと歌詞が作られています
(^_^)。

で、「その日まで」だと、この旋律には歌詞がついていないんですね
f^_^;

イントロと、伴奏に使われていて、藤澤ノリマサが歌うメロディーがちょっとなぞる部分もありますが、基本的に歌のメロディーはまるごとオリジナル。

ちょっと面白い使い方ですね(^-^)

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2009年5月27日 (水)

I do care

うちのアスペな長男は、自分が何かをしているのを見られるのを嫌がる。勉強しているのを見ていようものなら、「監視しないでください」と言われる。

うーん、監視しているつもりはないんだよ、ただ見ているだけなんだ。

君は、困ったことがあっても、自分から僕に言ってこないじゃないか。だからさ、つっかえちゃっていないか、嫌になって放り出したりしないか、気になっちゃうんだよ。

いつも一緒にいられる訳じゃないからさ、君が困っているのがわかったら、手伝ってあげたくて見ているんだよ。

監視している訳じゃないんだから、お節介かもしれないけど、勘弁してよ。

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2009年5月26日 (火)

藤澤ノリマサ:願い

この曲で使われているのは、レスピーギの「リュートのための古風な舞曲とアリア第3組曲」の中のシシリアーノです。

「リュートのための古風な舞曲とアリア」は、ルネッサンス期の音楽をレスピーギが編曲した管弦楽あるいは弦楽合奏のための作品で、第1から第3までの三つの組曲があります。

三つの組曲はそれぞれ独立した楽曲で、それぞれ編成も違っていて、「願い」で使われている「シシリアーノ」は弦楽合奏のために書かれた第3組曲の中の一曲です。

このシシリアーノの原曲は、スパニョレッタ(スペイン風という意味)というルネッサンス期の舞曲で、何人かの作曲家がこのメロディーに基づいた曲を書いており、ルネッサンス期に非常にポピュラーだったメロディーのようです。

レスピーギがどのような楽譜を見てこのシシリアーノを書いたのかは知りませんが、ルネッサンスの舞曲としては、もっと速いテンポで、ターンタタン、ターンタタンという、跳ねるようなリズムの音楽だったようです。

それをレスピーギはシシリアーノ(シシリア風)という、ゆったりとした別の舞曲にしてしまったわけですが、これはこれで、私は好きです。

藤澤ノリマサの「願い」は、レスピーギのゆったりとしたメロディーで始まって、そのままオリジナルのメロディーにつながっていきます。クラシックとオリジナル、と、二つの部分に分けず、シシリアーノのメロディーから展開して一つの曲を作っているわけですが、とても良い曲ができあがっていると思います。

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2009年5月25日 (月)

パウンドケーキ

うーん、夕べアップしたはずなのに、今朝見たらなかった、保存し忘れたかな?

と、つぶやきながら、料理シリーズ第2弾の再(?)アップ。

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ホットケーキミックスを使ったお手軽パウンドケーキ。色が黒っぽいのは素焚糖という奄美の茶色い砂糖を使ったせいで、焦がしちゃった訳じゃないよ。

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ちょっと贅沢に、ハーゲンダッツのアイスクリーム(ヴァニラとストロベリー)を添えて。

お手軽な割りに、かなりおいしくできたのは、素焚糖のおかげで、僕の手柄じゃないな

f^_^;

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軟口蓋を上げる

中学のときから、僕は40年以上トランペットを吹いているけど、管楽器を演奏する上で、私にはとても重要なことと思えるのに、誰も話題にしないし本にも書いていないことがある。それは、軟口蓋を上げること。

ネットで検索してみると、声楽では軟口蓋を上げるように指導している(2〜30年前に僕が読んだ何冊かの発声の本には書いていなかった)みたいだから、管楽器でも今は軟口蓋を上げるように指導しているのかな?

口蓋というのは口の中の天井の部分で、前の方の骨がある部分が硬口蓋、硬口蓋に舌先あてて、後ろの方に持っていくと、骨のない柔らかい部分があって、そこが軟口蓋。

軟口蓋は骨がないから、上にあげる(ドーム状に「ふくらむ」感じ)ことができて、管楽器を演奏しているときは、普通、軟口蓋は自然に上がっているんだ。でも、そのことを指摘する指導者があまりいないから、軟口蓋を上げずに演奏しちゃっている人もいるんだよね。

特に多いのが、喉を開けようとして、喉は開いても軟口蓋が下がっちゃう人。軟口蓋が下がると、音色が暗くなって、音程もいわゆる「ぶら下がった感じ」で低くなっちゃうんだけど、軟口蓋を上げることを知らない指導者は、これを直せないんだよね。

軟口蓋を上げるコツとして、「あくびをかみ殺すように」と書いていた人がいたけど、これ秀逸。あくびをかみ殺すようにして、口の中を舌で探ってみると、軟口蓋が上がって口の中が広くなっているのがわかるはず。

ただ、呼吸がしっかりしていないと、この状態を維持して楽器を演奏するのは難しいかもしれない。そういうときは、舌で口の中の息の通り道を狭くして、息のスピードをつけるといいと思う。僕は最初の音出しはこうしている。

ただし、舌が奥に引っ込んじゃいけないので、舌先を前歯の裏につけて、舌の中ほどを持ち上げるようにして調整している。調子が出てきたら、舌を下げて口の中を広くして、喉も前下に大きく広げると更にいい音になるんだけど、あくまでも軟口蓋を上げることが優先。

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2009年5月24日 (日)

藤澤ノリマサ:ダッタン人の踊り

この曲で使われているのは、ロシアの作曲家、ボロディンの歌劇、「イーゴリ公」の中のダッタン人の踊り。

この曲、よく知りませんf^_^;。

小学校の音楽の時間に聞かされているだろうし、英語の詩がついてストレンジャー・イン・パラダイスというポピュラー音楽(ミュージカルの中の曲だそうですが)にもなっているので、わりとよく耳にするメロディーなんですがね。

ボロディンって、本業は化学者だったせいもあって、作品の数が少なくて、名前は聞いたことがあっても、あまりなじみのない作曲家ですよね。

かつては小学校の音楽観賞の定番だった、「中央アジアの草原にて」も、近頃は入ってるCDを見つけるのが難しくなっているし、有名どころというとこの曲、というより、この「メロディー」くらい?私、個人的には交響曲第2番に思い入れがありますが…

このメロディー、楽譜を書いてみて気がついたのですが、ドリアン旋法が混じっていますね。ドリアン旋法というのは、音楽史でいうルネッサンス期の教会音楽で使われていた音階(「教会旋法」あるいは「モード」)の一つで、レミファソラシドレという音階です。

ギタリストのカルロス・サンタナが良く使っていた音階なので、私は勝手に「サンタナ音階」と呼んでいますが、短調に長調的な性格が入った独特の響きを持っています。

藤澤ノリマサのダッタン人の踊りは、短調、ドリアン旋法、長調と、いろいろな性格の音階を使った色彩豊かな曲になっています。発声のほうも、漂うようなメロディーを漂うような声で歌い始めて、だんだん声をシャープにしていって、そして…

ダッタン人登場!(違うかf^_^;)

ところで、藤澤ノリマサのこの曲のタイトル、なんで「ダッタン人の踊り」なんでしょうね?他の曲は歌詞の内容に合わせたオリジナルのタイトルを付けているのに…

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2009年5月23日 (土)

蝶々夫人

旅立ちの光では、「日本で一番有名なアリア」で片づけてしまいましたが、蝶々夫人について少々。

蝶々夫人の舞台は、明治時代の日本。アメリカの軍人、ピンカートンが、現地妻として蝶々さん(イタリア語歌詞でもcio-cio-san、チョーチョーサンとなっています)と結婚式を挙げる場面から始まります。このとき蝶々さんは15歳、という設定です。

二人の結婚を祝おうと、親族や友人が集まって来ますが、蝶々さんがキリスト教に改宗したことを聞いた伯父の僧侶、ボンゾ(日本語の「坊主」のようです)が怒って乗り込んでくると、ボンゾの怒りを恐れてみな去ってしまいます。

残った蝶々さんとピンカートンが、愛の二重唱を歌って第1幕の幕が下ります。

第2幕が始まると、ピンカートンはアメリカに帰ってしまっていて、蝶々さんは召使いの鈴木と二人で暮らしています。ピンカートンはもう戻って来ないのではないかという鈴木に、あの人はきっと戻ってくると歌うのが、「ある晴れた日に」ですね。

実際、ピンカートンは日本に戻ってくるのですが、既にアメリカで結婚していて、妻、ケートと一緒にぬけぬけと蝶々さんの住む「思い出の」家にやって来ます。このとき、蝶々さんがケートに会ってしまい、すべてを悟った蝶々さんは、ピンカートンとの間にできた子どもをケートに託して自らの命を絶ちます。

1幕と2幕の間で、1年以上の月日がたっていて、この間に蝶々さんは「かよわい可憐な少女」から「子どもを守る強い母」に変わっています。音楽にもそれが現れていて、1幕と2幕では、蝶々さん役に要求される歌唱がずいぶん違うように私は感じます。

だから、1幕と2幕で、蝶々さん役を変えるといいと思うのですが…本当に人が変っちゃったら変か。

CDだと、同じ歌手の若いときと年を経からという組み合わせで聞くという技が使えて、古い歌手ですが、レナータ・スコットの旧版で第1幕、新版で第2幕を聞くと、私の理想に近くなります
(^_^)

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安心・理解・自信

まず安心、次に理解、そして自信。

あるSNSで目にした、子どもの発達に関する順番だ。

安心がなければ、理解しようとする意欲が生まれない、理解すればできるようになり、それが自信を生んで次に進めるというものだ。

最初に安心とあることの意味がわからなかったが、なるほどと思った。理解できていないことに挑むには、不安が付きまとう。理解させることでその不安を晴らしてやろうとする前に、そのほかの不安を取り除いてやらなければ、うまくいかないということだ。

これは多分、子どもの発達だけのことではないし、理解を受容、挑戦などに置き換えても同じことが言えるだろう。

受け入れがたい事実を受け入れる、現状を打破しようと挑戦する、そのいずれにも不安がつきまとう。やるべきことを成し遂げることでその不安が払拭されると言っているだけではだめだし、ましてや不安をあおって前に進ませようとしてはいけない。

何をやるにも、それをやるための精神的な基盤、「安心」が重要だ、そう理解した。

何かをやろうしている人に、安心を与えられるような人間になれるといい。

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2009年5月22日 (金)

藤澤ノリマサ:旅立ちの光

旅立ちの光に使われているのは、プッチーニのオペラ「蝶々夫人」のアリア、「ある晴れた日に」ですね。日本を舞台にした作品のせいもあって、日本で一番有名なオペラアリアなのではないでしょうか?原曲は三拍子ですが、旅立ちの光では各小節の頭の音を一拍伸ばして、四拍子にしています。

この曲は、最初の歌い出しが「ある晴れた日に」のメロディーなのですが、拍子が変わっているせいもあって、私には歌い出しのメロディーが「ある晴れた日に」には聞こえず、「慕情(Love is a many splendered thing)」に聞こえてしまいます。和声が同じで、メロディーも似ているんですよね。

藤澤ノリマサは、この曲を全体的に軽めの発声で歌っています。「ある晴れた日に」のメロディーも、VINCEROの中の「誰も寝てはならぬ」ほどの厚みのある発声ではなく、オリジナル部分の発声に近い声で歌い出しています。

二番の後のブリッジの部分で、「ある晴れた日に」の終わりの部分のメロディーが使われているのですが、ここで藤澤ノリマサは声を張って、次にまた「ある晴れた日に」の冒頭の部分が出てきたときには、オペラの発声に近い発声でこのメロディーを歌い上げ、最後はまた軽い発声に戻ってこの曲を歌い終わります。

発声の使い分けで歌の表現を広げていることが、藤澤ノリマサの魅力の一つだと思うのですが、ポップとオペラ、白と黒という使い分けではなく、こういうふうに中間的な発声を含めて、グラデーションをつけてくれると、その魅力が際立ちますね。

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2009年5月20日 (水)

自家製ピザ

この間、家でピザを作ってみた。反省点多数の不細工なピザになってしまったけど、披露してみよう。

生地から手作り、この段階で既に見る人が見ると目をそむけるはずhappy02

Dough

子どもの粘土遊びかっ!というピザになってしまったbearing

Before

焼き上がると変身しているshock…はずはなくて、上の写真とは別のピザ。

After

因みに、焼く前の写真の上がホワイトソース味のツナ、下がトマトソースの野菜ピザ。焼き上がり写真の上がタラモで下がマルガリータもどき…

ピザを生地から作ったのは30年ぶり。この前つくったのが大学生のときで、レシピはプーさんのお料理読本のもの…ってのはwink笑えるでしょ。

手料理を人に食べさせるのが好きな変な男ってのは、そのころから変わっていないけど、最近は食べさせる相手が家族だけになっているのがちと寂しい。お声をかけてくれれば、材料持参で飛んでいくのだが…(どこへだ?)

まあ、こんなピザじゃ食べてくれるのは家族だけかもねcoldsweats01

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新型インフルエンザ対策

神奈川県では市町村の約6割が新型インフルエンザ発生時の行動計画が策定されていないという。「こんなに早く新型インフルエンザが発生するとは思わなかった」という、なんとも情けない某市の関係者のコメントが、新聞に載っていた。

僕が務めている会社では、今週から毎朝体温を計るように言われている。小中学校並みの対応だが、「真面目に防災訓練をやっている」という感じで、良いことだと思っている。

ふと気になったのだが、託児所や保育所が閉鎖されたとき、どれだけの人が仕事に支障が出るか、把握されているだろうか?

今回は弱毒性で既存の治療薬が効くということで、当初策定されていた対策を緩める方向で社会が動いているが、この機会に徹底的に情報を集めて、次のときにはより良い対応ができるようになると良い。

今回は慌てることはないが、間違っても、「新型インフルエンザなんて、たいしたことないんだ」という教訓を得たなんてことには、なって欲しくない。

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2009年5月19日 (火)

トゥーランドット

VINCEROの記事で書いた「ハッピーエンドというのは問題」という、その「問題」についてです。

トゥーランドットには主人公カラフと生き別れになった元皇帝のティムールと、目が見えなくなったティムールを支えてティムールとともに放浪の旅を続けていたリュウという女性が出てきます。リュウは元は奴隷の身だったのですが、かつて宮廷で自分に微笑みかけてくれたカラフに思いを寄せています。

物語はカラフとティムール、リュウの三人が北京で再開するところから始まるのですが、トゥーランドットに一目惚れしてしまったカラフは、ティムールとリュウがとめるのも聞かず、単身トゥーランドットの出す三つの謎に挑み、前に書いたように、謎を解いて「自分の名前を当てて見ろ」などという、余計なことを言ってしまいます。

カラフがいい気になって「朝になれば私の勝ちだ!」などと歌っている間に、ティムールとリュウがカラフと一緒にいたことがばれて、この二人はカラフの名前を知っているに違いないと、二人は捕らえれてしまいます。役人がカラフの名前を教えろとリュウを責め立てると、リュウはそれに耐える自信がないと、自らの命を絶ってしまいます。

ここでカラフがトゥーランドットを「お前が殺した」と責めるのですが、それって、変ですよね?カラフがトゥーランドットの謎に挑まなければ、あるいは謎に挑んでも、「自分の名前を当てろ」などと言わなければ、リュウが死ぬことはなかったんですよね。

それに気づかず、というより、それに気づいて「僕は悪くないよー、悪いのはお前だよー」とトゥーランドットに迫るカラフの「おこちゃま」ぶりは、いただけませんねえ。これじゃあ「その人の名は、愛」ではなくて、「わがまま坊主」…

トゥーランドットは、プッチーニの最後のオペラですが、プッチーニはリュウの死の場面を完成させたあと死んでしまい、その先は弟子のアルファーノという人が完成させました。

このオペラのヒロインは、タイトルロールのトゥーランドットなはずなのですが、トゥーランドットには魅力的なアリアなどはなく、二つの美しいアリアを持つリュウが、音楽的にはヒロインです。

多分、プッチーニが惚れていたのもリュウで、それを「ついうっかり」殺してしまったため、先が書けなくなってそのまま死んでしまった…というのは私の勝手な想像ですが、このオペラの初演のとき、指揮をしたトスカニーニは、リュウの死の場面で演奏をやめ、「ここでプッチーニは死んだのです」と言って終わったのだそうです。随分前のことになりますが、ヴェローナ歌劇場の引越し公演でこのオペラが日本で上演されたときは、リュウの死で一旦演奏を止め、指揮者が観客に向かってお辞儀をして、拍手を受けた後で、その先を演奏しました。

この先の音楽は、オーケストレーションが精彩を欠いていますし、カラフとトゥーランドットの歌も、魅力あるものではありません。

リュウが死に、リュウの遺骸とともにティムールが退場したところで、「自分犯した罪の意識に苛まれながら、立ち尽くすカラフとトゥーランドット」を残して終わるというのが、音楽的にも、物語的にも、いい終わり方だと、私は思っています。

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2009年5月18日 (月)

藤澤ノリマサ:Prayer

Prayerに使われているのはJ.S.バッハのカンタータ147番(イー・スー・チーと呼ぶ人も…)「主よ人の望みの喜びよ」のコラール、と言っても、コラールの歌の旋律ではなく、ヴァイオリンのオブリガート旋律に歌詞をつけて歌っています(歌の部分の旋律も少しだけ、転調する前の英語の歌詞の部分に出てきます)。

流れるような旋律…なのですが、古楽器派、作曲当時と同じ楽器か、その復刻版を使って、作曲当時の音楽理論に基づいて演奏する人たちは、この曲を速めのテンポで、拍の頭にアクセントをつけて、弾むように演奏する人が多いようですね。

このコラールの、古楽器による演奏を初めて聞いた時は、愕然としました。まるでスキップしているようで、なんだか、ずいぶん子どもっぽい「喜び」になっちゃったなという感じ…

でも、歌のフレーズの合間のバスのパートの譜面を見てみると、弾んでいるんですよね、リズムが。このリズムをゆったりと弾こうとすると、重くなっちゃうかもしれません。そう思うと、やっぱり古楽器演奏が本来の形かなとも思います、が…ま、「本来の形」なんてものは聞く方によってはどうでもいい話で、「どちらが好きか」でいいと思っています。今は私は、どちらも好きです。

藤澤ノリマサはまさしく「流れるように」歌っていますね。

Prayerでは、新たに作曲された旋律が、コラールの主旋律の逆行音形を元に作られたような感じで、全体のまとまりがとてもよくできていると思います。中音域のなめらかな発声もとても心地よくて、今のところ、藤澤ノリマサの曲の中で、私の一番のお気に入りです。

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2009年5月17日 (日)

藤澤ノリマサ:VINCERO

というわけで、VINCERO、プッチーニのトゥーランドットの話です。

最初に訂正です。VINCEROの最後の音はハイdではなくて、c#ですね。プッチーニのオリジナルより半音低いことに気づいていませんでした、ごめんなさい

m(_ _)m

使われているメロディーは、「誰も寝てはならぬ(Nessun dorma)」という、主人公カラフのアリアの中の一節ですが、フィギュアスケートの荒川静香がオリンピックで使って、有名になった旋律ですね。このメロディは、このアリアで初めて出てくる訳ではなく、その前も、後でも使われていて、「秘められた名前のテーマ」というべきメロディーです。

藤澤ノリマサの曲のタイトルになっている、VINCEROというのは、イタリア語で「我は勝つ」という意味で、元のアリアの中にも「朝になれば、私は勝つ」というフレーズでこの言葉が出てきます。

トゥーランドットというオペラの筋を簡単に書くと、舞台は古代中国の北京、トゥーランドットという、架空のお姫様がいて、このお姫様は自分に言い寄ってくる男に三つの問題を出して、それが解けないと殺してしまうという、怖いお姫様です。

主人公のカラフ(最初は名前は明かされません)は、国を滅ぼされた元王子で、トゥーランドットに一目惚れして問題に挑戦、三つの謎を解くのですが、結婚するのを拒むトゥーランドットに、「自分の名前がわかったら、自分は殺されてもよい、明日の朝までにわからなかれば、自分と結婚しろ」と、逆に問題を出します。

そこでトゥーランドット姫は、「朝までに名前を知っている者を見つけろ、名前がわかるまでは、『誰も寝てはならぬ』」とお触れを出します。このお触れを聞いて、カラフが歌うのが「誰も寝てはならぬ」というこのアリアで、自分の名前は誰も知らないので、「朝になれば私の勝ちだ(Vincero)」と歌う訳です。藤澤ノリマサのVINCEROの終わりには、このアリアの最後の部分、Vinceroを二回繰り返す部分が使われています。

オペラは一応、ハッピーエンドになっていて(実はハッピーエンドというには問題があるのですが)、カラフのくちづけでトゥーランドットの目が醒めて二人は結婚。最後はトゥーランドットが「この人の名前がわかりました。その名前は、愛です」と歌い、オーケストラがこの「秘められた名前のテーマ」を演奏して終わります。

「ハッピーエンドというには問題」という、その問題については、いつか改めて。

今日、カラオケに行ってVINCEROを歌ったのですが、最後のc#、出ちゃいました。

まだ響きが貧弱だし、あんなに長く伸ばせませんが、この高さの声が出たのは久しぶり、なぜ出せたのか、わかりません。藤澤ノリマサのこの曲の発声のイメージが、私の体に合っているみたいです。

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続・藤澤ノリマサ

藤澤ノリマサの発声のヴァリエーションはすごいね。

今風J POPの王道、クラシックのテノール風、普通のファルセット(裏声)、ハードロック(死語?)ばりのハイヴォイス、多重録音のコーラスではカウンターテナーまで出てくる。

発声の見本市?

これだけ多様な発声していて、よく混乱しないなと思ってしまう。

一つの音を伸ばしながら、だんだん発声を変えていくなんていう、憎いこともやってくれちゃうし。

気に入ったぞ(^O^)/

このあと暫く、素材になってるクラシックの曲との藤澤ノリマサ版の関係でも書いていこうかな。

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2009年5月16日 (土)

藤澤ノリマサ

藤澤ノリマサのCDを買った。

カラオケ店でバッハのカンタータ147番、「主よ人の望みの喜びよ」のオブリガート旋律に、日本語の歌詞を付けた曲が流れていたのを耳にして、「歌ってみたいな」と思ったんだけど、暫くは歌手の名前も曲のタイトルもわからなかった。それがこの間、藤澤ノリマサのPrayerだということを知った。

すぐにPrayerをダウンロードして聞いた。不覚にも、ジーンとしてしまった。音域は僕に会ってるけど、まだ歌わないぞ。渚のラブレターも…

それはさておき、CDだ。クラシックのメロディーをサビに使った曲のオンパレード。オリジナルメロディーの部分と、クラシックのメロディーの部分とで発声を変えているのがおもしろい。

トゥーランドットのネッスン・ドルマを使ったVINCEROは、もう少しプッチーニのメロディーを使えなかったのかなと思う。

でも、終わりには恐れ入った。主音にあがっちゃうんだもんねえ…

ハイdだよ(^_^;

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三田用水

今やってたタモリ倶楽部に、実家の近くが出てきた。

子どものときに遊んでいた場所をテレビで見るのは、変な感じだった。

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数独

数独の問題を解くプログラムを作ったことがある。

最初は自分が見つけた解き筋をプログラムに組んだんだけど、プログラムをいじっているうちに、自分が見つけた解き筋が、次の二つのロジックに集約されることがわかった。

数字の重複が許されない一つの領域で、n個のマスに入る数字がn種類に限られているとき、そのn種類の数字は他のマスには入らない。

数字の重複が許されない一つの領域で、n種類の数字が入るマスがn個に限られているとき、そのn個のマスには他の数字は入らない。

なんのことだかわからない?両方同じじゃないかって?

リクエストがあればもう少し詳しく説明するけど、たった二つのロジックで、数独の「ほとんどすべての」問題が解けてしまうということがわかったということだけで、話を進めさせて。とりあえず、この二つのロジックを、「究極のロジック」と呼んでおこう。

念のために書いておくと、この「究極のロジック」だけで問題を解こうとすると、とても「非人間的な」作業をすることになる。なんせ最初にすべてのマスに、入る可能性のあるすべての数字を書き出す、という作業から始まるんだから。

で、作ったプログラムで手持ちの数独の本に出ている問題を解いてみて、ほとんどの問題が解けたんだけど、その本には僕が解けない問題が一つだけあった。その問題をプログラムで解こうとしたら、やっぱり僕が詰まってしまったところで止まってしまった。

しかたなく、数字を虱潰しに調べていくプログラムを作ったら、ちゃんと答えはあって、しかも答えは一つしかないこともわかった。

うーん、数独には僕が見つけていない解き筋が残っているのか、それとも、あの問題は試行錯誤じゃないと解けないのか、気になる。

このプログラムを作ったあと、数独の本を何冊か買っているけど、僕の見つけた解き筋で解けない問題には、この一つ以外お目にかかっていない。

この「究極のロジック」に行きついたあと、数独を解こうとして行き詰ると、やたらこのロジックを使いたくなるようになってしまった。もっと簡単な解き筋で解けるのを見落としていることの方が多いので、かえって時間がかかるだけなのに…

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2009年5月14日 (木)

パズル

パズルが好きで、だいたいいつでも、ニコリのパズル本を持ち歩いている。

数独から始まって、カックロ、スリザーリンクと手を伸ばし、今持ち歩いているのはフィルオミノ。

数独やカックロは、最近はやらない。こういうことを書くと、怒る人がいるかもしれないけど、同じ種類のパズルをある程度解くと、そのパズルを解くことが頭の遊びじゃなくなっちゃうから。

これは多分、僕にある種の知的能力が欠けているせいで、けして同じ種類のパズルを解き続けることを悪く言うつもりはないので、怒らないで。

僕がパズルを解いていて、一番頭を使っているって感じるのは、解き筋という、解き方のパターンを見つけだそうとしているときで、自分なりに解き筋を見つけ終わったと思うと、あとは問題から解き筋のパターンを探し出すか、試行錯誤で解けるかどうかやってみるという作業になっちゃう。このとき僕は、あんまり頭が使えなくなっちゃうんだよね。頭が不器用で、発見的問題解決っていうのができないから。

発見的問題解決ができる人は、多分、僕には見つけられないか、見つけても使いこなせない解き筋が使えたり、解き筋として意識してなくても、ひらめきで解けたりするんだと思うけど、僕にはそれができないんだなあ。

試行錯誤で手が進んだときでも、それなりの快感はあるし、比較的簡単な問題を、自分の見つけた解き筋でスパスパ解いていくのは快感だけど、なんだかそれって、肉体的快感に近い感じ
(^_^;)

だから、新しい解き筋を見つける快感を味わいたくなると、新しい種類のパズルに手を出すんだけど、僕の脳の特性に合ったパズルがそろそろ尽きてきた感じ。

今やってるフィルオミノも、今一つ合っていない感じで、解くのがつらくなってきてる
f^_^;

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国を会社に例えると

日本の国を会社に例えると、首相は社長、他の大臣や国会議員も含めてが役員。

国民は?
…社員?

社長や役員は、社員によって選ばれているんじゃないよね。日本の会社だとはっきりしないかもしれないけど、株式会社の社長や役員は、基本的には株主によって選任されるもの。

だから、国民は株主。国民が社員になっちゃうのは独裁国で、民主主義国家の主権者である国民は、株主。

政治家も一般国民も、この考えが弱いと思う。

日本は何かと教育が軽視されていると思うんだけど、民主主義国家の国民にとって、とても重要な教育が欠けている。

それは、為政者のやることを、正当に評価できるようになるための教育。まるで評価されることを嫌っているか、恐れているみたいに、すっぽり抜けていると思う。評価というのは、批判だけじゃないのに。

評価できるようになるための教育といっても、評価基準を教えることじゃない。為政者がやっていることを知る力と、なぜそれをしているか、それが自国や他国の国民にどれだけの利益をもたらすかを考える力と、それに基づいて自分なりに評価する力を育てること。

これをやらないから、日本の国民の政治に対する不満は、まるで会社員の上司に対する愚痴みたいになっちゃう。

はい、そうです。この記事も、会社員の愚痴です。今のところ…

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2009年5月13日 (水)

ふと思い出したこと

大学3年のときに、恋人と呼べる相手ができた。付き合っているうちに、だんだんお互いに相手に求めていることがずれていることがわかってきたけど、それでも僕は離れられなかった。

けれども、彼女にとっては僕はもう恋人ではなくなり、4年になるころには、会うこともほとんどなくなっていた。

4年の秋に、突然彼女から家に電話があった。会いたい、大学の近くにいるから、迎えに来て欲しいという。

僕はすぐに出かけた。彼女に会ってどうしたのか訊くと、辛いことがあって、一人でいたくないと言う。

どうして僕を呼んだのかと訊くと、「だって、悟郎君しかいないんだもん」

このとき僕は、勘違いしてしまった。やっぱり僕は、彼女の恋人じゃないんだということが判らずに、もう一度恋人に戻ろうとしてしまった。

もしかしたら、恋人以上の関係だったかもしれなかったのに…

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ありがとうございます

独り言として始めたこのブログですが、毎日何人かの人が訪れてくれています。ありがたいことです。

ただ、あるコンサートの情報を求めていらっしゃる方が大半なので、この状態はそう長くは続かないと思うのですが…

そのコンサートのチケットでググると、2ページ目にこのブログの記事が出てくることに、今日、気づきました。

その記事は、大昔のコンサートのことを書いたもので、検索をかけた方の求めているだろう情報は書いてないんです。

ごめんなさい(._.)

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2009年5月 9日 (土)

ガーファンクる?

NHKのBSで、火曜日の夜11時から、名探偵モンクというアメリカの推理ドラマをやっている。

この間見ていたら、さかんにガーファンクルという言葉が出てきた。主人公である探偵モンクの助手、ナタリーが、宝くじの抽選をするロトガールにスカウトされる話で、それを心良く思わないモンクが、自分のことを「とんだガーファンクルだ」と繰り返していた。

あのガーファンクルかな?と思っていたら、最後にナタリーがアート・ガーファンクルのことだと教えてくれた(モンクはサイモンとガーファンクルを知らないみたいだったけど)。

やっぱり。でも、ガーファンクルって、どういう意味だ?

そう思って、ネットで調べてみた。簡単に言うと、

パートナーが、より良い条件を求めて去って行くこと

だって(^_^;

サイモンとガーファンクルを知らない人にも、こんな意味で名前が知られているなんて、アーティー、かわいそう…

でもさ、CDの再発状況から見ると、ソロのポールは、忘れられかけてない?

ガーファンクるの意味が、

落ち目になったかつての相棒の元に、戻って来てあげること

に変わってきたりして…
f^_^;

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2009年5月 8日 (金)

READING GLASSES

眼鏡が壊れてしまった。

眼鏡といっても老眼鏡。普段はかけていなくて、本やパソコンの画面を見るときにだけかけるので、出し入れが激しく、すぐに壊れちゃう。

一番よく壊れるのが、鼻にあたる部分、これがすぐにとれちゃう。こことフレームが一体化したものを見つけたので、それを買ったら今度はフレームが折れたりつるが折れたり…

通勤経路の乗換駅にある店で売っている老眼鏡は、使っているうちにねじが外れて崩壊する。小さなねじなので、外れてしまったらまず見つからない。

かけたりはずしたり、頻繁に出し入れするからすぐに壊れるんだよなあ。そのたびに2~3千円のものを買っているけど、買った数は10本じゃきかないから、もう何万円も眼鏡にかけていることになる。

眼鏡屋でしっかりしたフレームのものを買ったほうがいいのかなあ。

ところで、老眼鏡という言い方、もろに「年取って衰えちゃいました」って感じがして、嫌だよね。「ローガン卿」という、英国貴族みたいな当て字(?)を見たことあるけど、英語だとタイトルのようにREADING GLASSES、これを訳して「読書鏡」と呼べばいいのになあ。

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2009年5月 7日 (木)

診療拒否

新型インフルエンザ、このゴールデンウィークで必ず日本に入ってくると予想していたけれど、幸い今のところ、日本での発症者はいないようだ。

連日テレビで関連情報が報道されて、国民の関心が高いのはいいことだと思うけれど、適切な対応ができているかというと、疑問もある。その一つがこれ、医療機関の診療拒否。

http://www.asahi.com/national/update/0505/TKY200905050146.html

一般の目に触れる情報としては、「疑いがある場合はいきなり診療を受けずに発熱相談センターへ」という方が目立っているから、

http://www.pref.kanagawa.jp/osirase/fukusisomu/influenza/H210426soudan.html

医療機関への対応依頼が適切だったかどうかは考える必要があると思うし、発熱相談センターに診療拒否を報告した人たちの中に、メキシコやアメリカに行ってきた人はいなかったのかどうかもわからない。

診療拒否した医療機関を全面的に非難することはできないんじゃないかと思うけど、「ただ怖いから嫌だ」という医者がいなかったかどうか…は気になる。

まあ、医療従事者でも、自分の身を守る必要があるから、逃げる人がいたからといって、これまた非難する気はないけどね。たださ、そういう医者は、「うちはいざという時は逃げるので、頼らないでください」という看板を、普段から掲げていて欲しいよね。

もしもそういう医者がいたならば、という話だけどね。

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2009年5月 6日 (水)

ゴーストタウン?

ゴーストタウン?
写真は昨日撮ったものなんだけど、道路に注目して。車が一台も写っていないでしょ?

撮ったのは田町駅の近くの歩道橋からで、そもそも休日は人や車の通りが多い場所じゃないけど、昼間の東京で車の写っていない光景が撮れるなんて、自分で驚いちゃった。

撮ったときには気がついていなかったくらいだから、たまたま赤信号で車が途絶えたところでシャッターを切っちゃっただけだと思うけどね。

変なことに結び付けた、悪趣味なジョークに使わないでね。

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2009年5月 5日 (火)

こんなのあり?

昨日の清正公の縁日で、小5の息子が射的にはまった。射的屋のおじさんは気のいい人で、子どもたちには落としやすいように賞品を置きなおしてくれていた。

そのうち僕に気がついたみたいで、落としやすいところにライターを置いてくれたので、息子に「とったら買い取ってやるぞ」と言ってライターを取らせた。

取った賞品はとりあえず僕が預かって、実家に戻ってからライターを見てびっくり。

CAMA SUTRAライター!?

こんなの子どもにとらせるなよな!

息子が見ないうちに僕が預かっちゃたからまだ良かったけどさ、僕だって人前じゃ使えないぞ(^_^;

(ここまでの文章でおわかりかと思いますが、18歳未満の方、性的な絵画に不快感を覚える方は、下の画像を見ないでください。けして法律に反するようなものではありませんが…)

Kamasutra

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2009年5月 4日 (月)

清正公様

今日は実家の近く、高輪の清正公(せいしょうこう)に行って来た。

Photo

清正公は加藤清正を祭ったお寺で、毎年5月4日、5日に縁日で屋台が出る。通りを一つつぶす、結構大きなお祭りだけど、今年は屋台の数が減っていた。

Photo_2 090504_15200001

僕が子どものころは、3日から5日の3日間のお祭りで、期間中はお小遣いを貰って毎日通った。

その頃の定番といえば、山吹鉄砲、吹き矢、金魚すくい、ヨーヨー釣り、ハッカパイプ、べっこう飴といったところだったけど、この内いまでもあるのは金魚すくいとハッカパイプだけ、ヨーヨー釣りはあったけど、プラスチックのキャラクターヨーヨーで、以前のゴム風船の水ヨーヨーは見かけなかった。

その代わり食べ物屋台が増えて、大きな串焼きとか、ドネルケバブまであるのは大人に嬉しい。

逆に寂しいのは山吹鉄砲がなくなってしまったことだなあ。おもちゃ屋には売っていなくて、僕たちにとっては年に一回、この清正公様の縁日でだけ手にはいる、特別なおもちゃだった。毎年何種類か買って、でも1ヶ月も保たずに壊れたりなくなったりして、翌年また買う…

考えてみたら、5月限定みたいなおもちゃだったな。
(^-^)

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2009年5月 3日 (日)

鎌倉での半日

昨日、鎌倉での講習会の後、少し鎌倉を歩いてきた。

あまり行ったことのない釈迦堂口切通しに向かうと、崖の崩落のため通行禁止の看板が立っている。それでも行けるところまで行ってみようと歩いて行くと、切通しまで来てしまった。
切通しを抜けて歩いて行くと、こちら側には通行禁止の看板がない。人家があるところまで来ても、どこにも通行禁止とは書いていない。
なんなんだ?

坂を下っていくと、黄金やぐらという案内板があった。聞いたことはないが、ことによると名越の切通しに行ける山道があるかもしれないと思って、行ってみることにした。

少し歩くと、畑に行き当たった。畑仕事をしている人がいる。上半身裸の、60過ぎと見える男の人が、働いている。日に焼けた胸が、やけに逞しく見える。
5月の昼過ぎの日差しの中のその光景は、もう夏の景色だ。

古都鎌倉の景色ではない。子どものころ、夏休みに海や山のに行くと見かけた、そんな夏の景色だ。

結局名越の切通しの方に行く道はなく、引き返して鎌倉の町に向かう。

八雲神社に来たところで、祇園山ハイキングコースを歩きたくなった。

神社の横の石段を登り、見晴台から海を見た後は、足を速めて進んだ。急ぐ理由などないが、前を歩く人たちを追い抜いて進んだ。

なんだかそんなことがしたい気持ちだったから。

畑で働いていた人と、勝手に張り合っていたのかもしれない。

こんな鎌倉の半日があっても、いいだろう。

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2009年5月 1日 (金)

ディスレクシア?

下の息子がディスレクシア(失読症)の可能性があって、発達相談所で診断のためのアセスメントを受けた。

ディスレクシアというのは、読み書きが困難という、学習障害のひとつ。漢字を覚えるのが苦手な子という認識はあったけど、小5になってカタカナまで覚えきれていないことに気がついて、診断を受けることにした。

ディスレクシアだといってどうということはないけど、子どもの能力の特性がわかれば、無益な苦痛を強いることが避けられるし、効果的な学習方法がわかる。

まだ一回目を受けただけで、結果はわからないけど、こういう対応ができたのは、発達障害を身近にしてくれたアスペの長男のおかげだし、そのことで様々な人とつながりができたおかげだ。

障害児に限らないけど、親は孤立してはいけないと、改めて思う。特に障害を持つ子の親は、子どもと親のことを理解する、専門家や同じ仲間と繋がっていないといけない。

孤立している親がいたら、繋いでいきたい、僕で良ければ、繋げて欲しいと思う。
僕も沢山の人に繋がっていたいと思って、明日の朝は鎌倉で開かれる発達障害の講習会に参加する。

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