« 梅雨・紫陽花・鎌倉 | トップページ | 藤澤ノリマサ:僕の太陽 »

2009年6月12日 (金)

プッチーニの「ストーリー」

プッチーニのオペラはストーリーが弱いと言われます。

トゥーランドットがそうですよね。前に書いたように、カラフとトゥーランドットでリューを殺しておきながら、二人が結ばれてめでたしめでたしでは、納得がいきません。

プッチーニというオペラ作家にとっては、ストーリーなんてどうでもよかったんだと、私は居直ってしまっています。

典型的なのが、出世作の「マノン・レスコー」。一幕は、マノンとデ・グリューが手に手をとって駆け落ちして終わり、二幕の幕が上がると、金持ちに囲われて暮らしているマノンの退屈した姿がで始まる。

「マノン・レスコー」というオペラ、ストーリーは全部幕間、幕が下りている間に進んじゃうんです。プッチーニは自分の気に入った場面に音楽をつけているだけで、自分の音楽で物語りを聴衆に伝えようなんていう気持ちは、さらさらない…ように私のは思えるんです。

だから、蝶々婦人の最後で、「恥に生きるより名誉に死ね」という父の言葉通りに、蝶々さんが自らの命を絶ったのに、恥の象徴である芸者のモチーフで終わることの「意味」…なんてことは、考えてもしかたないんです。

プッチーニについて、私はまだまだたくさん「悪口」言えますよ(^_^)。音楽についてでも、まともな重唱がないとか(「ラ・ボエーム」の三幕の四重唱は、ミミとロドルフォの二重唱をムゼッタとマルチェッロが邪魔してるだけ)とかね。

でも、僕にとってはそんなこと、どうでもいいんです(^o^)。

プッチーニは「人の声を聞かせる」ということ、ただそれだけで価値があるんですから。多分、音色とか、響きとかに興味のない人には縁のない音楽なんだと思います。

「ラ・ボエーム」の終わり、ロドルフォがミミの名を叫ぶとき、その音がg#なのは、g#の音高さが重要なのではなくて、テノールにとってのg#の意味、そこから生まれる音色がキーなんだと思うんですよね。これがgやaだったら、多分泣けません。

|

« 梅雨・紫陽花・鎌倉 | トップページ | 藤澤ノリマサ:僕の太陽 »

音楽」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« 梅雨・紫陽花・鎌倉 | トップページ | 藤澤ノリマサ:僕の太陽 »