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2009年6月 8日 (月)

プッチーニの「歌」

プッチーニのオペラのアリアって、楽器で演奏するとなかなか音楽になりません。

原曲のオーケストレーションを生かしながら器楽曲として再構築すれば別なのかもしれませんが、歌のパートを楽器に置き換えただけでは、まずだめです。

ひとつの原因は、プッチーニのオペラの歌のパートって、旋律がぶつぎれなんですよね。メロディーはオーケストラが通しで演奏していて、その一部に歌詞がついて歌手が歌っている、っていう感じなんです。

蝶々婦人の「ある晴れた日に」は、歌のメロディーの合間に装飾的なメロディーを加えたものをヴァイオリンが演奏していると見ることもできるかと思うのですが、私にはヴァイオリンが弾いているのがこの曲のメロディーで、歌はその一部だけを歌っている、というより、しゃべっているように聞こえるんです。

もうひとつの原因は、上のこととも関係するのですが、歌のメロディーの動きが少ないこと。トスカの「星も光ぬ」とか、ラ・ボエームの「なんて冷たい小さな手」なんかがそうなんですが、歌いだし部分、音の動きが小さくて、ただ言葉を「語って」いますよね。こういうところ、楽器に置き換えるとどうしようもなくなっちゃいます。

歌がだんだんもりあがってくると、それなりに動きも出てきますが、最高潮に達したところ、というよりその曲で出てくる「一番高い音」を長々と伸ばして聞かせる、ここらへんも楽器で聞かせにくいところです。

だいたいその「長く伸ばした一番高い音」というのが、8分音符だったり、16分音符だったりするのですよね、こういうところがプッチーニの音楽が安っぽく見られる理由のひとつだと思うのですが…

結局プッチーニの音楽って、「人の声を聞かせるための音楽」だと思うのです。それを心地良く感じる人にはすばらしい音楽なんですが、これに価値を感じない人にはまったく意味のない音楽だと思います。人の声を聞かせるために、オーケストレーションを含めてものすごい技巧が凝らされていて、けして「美声を聞かせるだけの能無し音楽」ではないと私は思っていますが。

だからプッチーニ歌いに求められるのは、第一に美声の持ち主であること。私は基本的にはこれ以外のものは求めていません。ただ、マリア・カラスが、ラ・ボエームのミミに性格を与えているのを聞いてしまうと、迷いも出てきますが…

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